ボランティア活動をはじめ、間をおきながらですが、12年になります。この頃ずっと思っていたのはボランティアって、なんやろう、っていうことです。このこと、みなさん、一度は考えたり、なにかで読んだりして、そうなんかな〜って疑問に思ったりすることじゃないでしょうか。
自主性と無償ということが、ボランティアの定義として、多くの場合言われるような気がします。それは間違いではない。それは属性としてはそうだと思う。条件としてはそうだと思う。でもそれは必要条件であって、十分条件ではないのではないでしょうか。
歴史的経緯からいえば、現代日本におけるボランティアの源流には二つあって、一つはキリスト教の文化圏、とくにカトリックの考え方からきたもの。そしてもう一つは学生運動が形を変えて地域社会に、ある種の組織形態の運営そのものを目的として根付いていった、そういう流れがあっただろうと思うのです。
しかしそのいずれも、今のこの世界のボランティアということの意義、そしてどこへいこうとしているか、ということを考える上においては、本質的にはたいした意味をもたないように思えます。たいせつなことは、そのことで宗教的ミッションが達成されるかどうかでも、思想やそれに付随するノウハウが蓄積保存されることでもない。
あるいは国の福祉施策を補うのがボランティア団体の役割なのかというとそれも違うと思うのです。障害者福祉に関していえば、措置の時代の余暇活動、支援費制度以前の在宅介護など、そういう側面も多々あったの事実です。しかしそれもまた本質ではないのです。
ぼくはボランティアとは、一言でいって愛だと思う。それは優しさであり、気配りであり、自然な思いやりであり、親切な気持ち。ただのあいさつですらある。ただし心のこもった。
それは隣のヒトをたいせつに思い、目に触れるヒトに親切にしたくなる、自然な気持ちにもとづく、実際に差し伸べられた手です。それは手当て。それは声。大丈夫?という声です。
そう考えたとき、ボランティアはこの世界からなくなることはない。ヒトとヒトとがふれあい、愛し合う限り。それはいつの時代にも必要とされ、大切にされなければならない考え方だと思います。隣のヒトのために何をできるか。悲しみや苦しみに対して、何ができるのか。そしてそれはあたらしい種をまき、あたらしい愛をつむぎ、どんどんと広がっていくのです。だってヒトを笑顔にすることは楽しいことですものね。
ボランティアというのは特別なことではないのです。ヒトとヒトとが優しい方の気持ちで触れ合うときに現れる、実際の行為。それがボランティアだと思う。そしてそのような人々同士の自然な愛を、ほかほかと伸ばし、上手に束ねたり、種をまくのが、ボランティア団体の使命だと思うのです。
そしてそうした行いの中に、自然にいろいろな人々のための居場所が生まれる。運営そのもののための会議や、国や企業の助成をえることそのものが、あたかも団体の目的みたいになっている現状はおかしい。よいことをやってやってやりまくるのです。そんな親切なことをしてくれる誰かが、貧しくて生きていけないようなことを、社会の誰も望みはしません。むしろたくさんの必要な物資がどんどんと集まり、たくさんの人が笑顔で仕事ができ、活躍できる場所ができることでしょう。
実際に何ができるのかを考えましょう。悲しんでいるヒト、苦しんでいるヒトを探しましょう。不幸を分かち合い、ともにため息をつきましょう。寒さで凍えているヒトに毛布を。毛布がなければこの手のぬくもりを。
このたび、高松ボランティア協会の副会長という役職をいただき、恐れ多く思っています。でもぼくの行動や抱負は昨日までと変わらないと思うのです。目の前の人をどれだけ愛することができるか。今日出会う、全ての人を全力で愛することできるか。今日一日しかないものと思い、今日一日を本気で、一度きりの出会いであるあなたにココロを開いて接することができるか。目の前の人を愛するという行いが、遍く世界に広まるのであれば、そこには大きな思想や政策を待つまでもなく、理想の世界が実現している。それにはまず、ここにいるわたしが、目の前のあなたを愛するということがたいせつだと思うのです。